2004年8月3日

今日は22:00ごろからアジアカップ準決勝。日本とサウジアラビアが激突する。

 

相変わらずあまり応援する気になれない我らが日本代表だが、それでもやはり「アジアNo.1」のレベルにまで達してきたと思う。

その証拠に、日本は今大会優勝すれば2000年大会と2004年大会に続いて3連覇となる。アジアレベルとはいえ、永遠のライバルである韓国やサウジアラビア、イラン、さらに今大会からはオーストラリアも参戦している。決してフロックで連覇できる大会ではないだろう。

 

2004年大会の準決勝、対バーレーン。この試合での日本代表は、私が見た日本代表のなかで最もしぶとく、粘り強く、勇ましかった。

バーレーン先制、日本逆転、バーレーン再逆転、日本再々逆転。

ドラマのようなシーソーゲームは今でもよく覚えている。後半40分に得点を許し2-3。もう後がなかった。しかしその5分後、中澤のオハコ“ボンバーヘッド”で追いついた日本は、さらにその3分後に玉田が決勝ゴールを挙げて勝利をもぎ取った。

個人的には、中澤の同点弾は鳥肌が立つほど感動的なものだった。うだるような猛暑の中、残り時間も少ない状況で、ディフェンダーの彼が前線まで上がり、体を投げ出すようなヘディングシュートでゴールを決めた・・・

ゴールシーンだけ見れば、普通のヘディングシュート。しかし、絶体絶命の最終局面で、中澤は集中力を切らさず逆転を信じていたのだ。その気持ち、気魄がもたらした同点弾。

 

もう一度こんな気魄を魅せられれば、私は否が応でも応援する気になるのだが―。

今大会はあと2試合。どうせなら優勝だけじゃなくて、ゴールネットを突き破って死傷者を数人出すようなシュートでも見せてくれ。

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David Beckham

台風直撃なのでさすがに外出できません。引きこもりです。

なんとなくベッカムの記事でも書こうと思います。

(※19:20追記 熊本市内は台風の影響はほぼありませんでした。なんのこっちゃ) 

 

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「優勝することが最初のシーズンの目標。もっと大きな目標は、この国のサッカーのレベルを上げることだ―」

2007年7月13日、米プロリーグ・MLSのロサンゼルス・ギャラクシーの入団会見に臨んだデイヴィッド・ベッカムは、新天地での活躍を誓った。

前所属チームであるレアル・マドリーで、チーム通算30回目のリーグ優勝を果たしての移籍。欧州最後の舞台で有終の美を飾ったベッカムであったが、それはまさにハリウッド映画のような劇的なフィナーレだった。

 

衝撃の50m弾、歴史に残るトレブル達成・・・
マンチェスター・ユナイテッドでの黄金時代

 1975年5月2日、ロンドン東部のレイトンストーンに生を受けたベッカムは、父親が熱狂的なマンチェスター・ユナイテッドのファンだったこともあり、物心ついたときからすでにサッカーボールを蹴り始めていた。もちろん、好きなクラブはマンチェスター・ユナイテッドであり、13歳の頃には練習生として早々と門をくぐった。
 幼い頃から地元でも「ずば抜けた才能を持っている」と脚光を浴びていたベッカム少年は、スーパースター揃いのマンチェスター・ユナイテッドでも次第に頭角を現すようになり、95-96シーズンには遂にトップデビューを果たす。
 しかし、彼を一躍スターダムにのし上げたのは、翌96-97シーズンの開幕戦だろう。相手はウィンブルドン、試合はロスタイムに入っていた。センターライン付近でパスを受けたベッカムは、相手ゴールキーパーが前に出ているところを見計らって、思い切り右足を振りぬく。ボールは美しい軌道を描き、慌てて戻るキーパーの頭上を越え、ゴールに吸い込まれていったのだった。ベッカムは当時をこう振り返る。「あの瞬間がすべての始まりだった。マスコミの注目や名声・・・まるで、僕がキックしたボールが、新たな人生のドアを開けたみたいだった」
 こうしてマンチェスター・ユナイテッドのレギュラーに定着したベッカムは、その後の在籍8年間で6度のリーグ優勝、2度のFAカップ制覇を成し遂げ、名実ともに世界のスーパースターとなった。特に98-99シーズンのトレブル(3冠=プレミアリーグ、FAカップ、チャンピオンズ・リーグ)達成は歴史に残る大偉業であり、チャンピオンズ・リーグ決勝での奇跡の逆転劇(バイエルン・ミュンヘンに0-1でリードされていたが、後半ロスタイムに2ゴールを奪って逆転)は、ベッカムのコーナーキックから生まれたものであった。

 

“ガラクティコ”への電撃移籍も
待ち受けていたのは屈辱の低迷期

 日韓ワールドカップ後の03-04シーズン、ベッカムはイングランドに別れを告げ、前年度のスペイン王者だったレアル・マドリーへ移籍。周囲の期待は並々ならぬものであり、自身も今まで以上の飛躍を誓っていた。
 ところが、皮肉にもこの時からレアルの歯車は狂い始めた。フィーゴ、ジダン、ロナウドに続いてベッカムとビッグネームばかりを揃え、まるで企業のようにビジネスを優先させ続けたレアル。そして、個の力に頼ったチームは徐々にメッキがはがれるかのように低迷してゆき、ベッカムが入団したシーズンから3年連続の無冠。ベッカム自身も得意のフリーキックとクロスで気を吐くも、何ひとつタイトルをもたらすことが出来ずにいたのだった。
 そして06-07シーズンも中盤に差し掛かった2007年1月、ベッカムは突如、アメリカのクラブであるロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍を発表。しかしこのときレアルは3位と低迷しており、シーズン途中の発表だったこともあって、ファビオ・カペッロ監督からは冷遇されるようになる。「結局、レアルへの移籍は失敗だった―」周囲ではそんな声も囁かれ始めた。
 しかし約1ヶ月後、カペッロは自分の非を認めることになる。事実上の“飼い殺し”状態ながら懸命に練習に取り組む姿を見かねたキャプテンのラウールが、カペッロに出場を懇願。そして久々の先発出場となったベッカムは大車輪の活躍を見せ、その後も黄金の右足で決定的なアシストを連発し、ついにはポジションを再び奪い返した。こうしてベッカムの活躍により息を吹き返したレアルは、大混戦のすえ宿敵バルセロナを抑えて4年ぶりのリーグ優勝を成し遂げたのだった。

 

Pic_0159  

<わーい

 

 

 

 

 

 

 世界トップレベルのリーグでの経験を活かし、ペレやフランツ・ベッケンバウアーもそうしたようにアメリカのサッカー普及を目指すベッカム。彼らと同様に“サッカーの伝道師”と呼ばれる日は近いであろう。

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熱戦!

昨日に続き今日も観戦さ!(´ー`)ノ

 

今日はACミランVSマンチェスター・ユナイテッド(2ndレグ)という熱い一戦です。昨日の試合はリヴァプールが勝ったため、この試合の勝者とリヴァプールが決勝の地アテネで激突することになります。なお、1stレグはマンUが3-2で勝っています。

そうそう、その昨日の試合についてですが、Wangさんも観てたらしいんですよ。で、研究室でその話になったとき

 
 

Wang「昨日の試合は退屈だったぜ・・・スコアもたったの1-0だ」

 
 

とかなりご不満のようでした。

が、 

 
 
 
 
 

甘いぜ兄者( ゚Д゚)/ 

 
 
 
 
 
 

派手にスコアが動くゲームだけが楽しいゲームではないのだ!

私としてはかなり楽しめました。ボール以外のところに目を向けると、パスをもらう前の選手の動き出しとか、DFとFWの駆け引きとか、結構見所があるってもんです。あとフォーメーションとメンバーとかについて、「なぜ今日はこの陣容なのか?」といろいろ考えてみたりするのも面白いですし。

 
 

・・・マニアックですか?はい、すいません。

 
 

まあとにかく今日はミランとマンUの試合です。試合会場はミランのホーム、サンシーロ。1stレグを2-3で落としているミランですが、アウェーゴール方式によりホームでのこの2ndレグは1-0で勝てばOK。1-0で守りきって勝つというのは、イタリアのクラブが得意とする戦い方です。

ただ、今のミランがマンUの攻撃陣を無失点で抑えるということは難しいと思われます。今のマンUの攻撃陣は「黄金期の再来」と言われるほどに充実してますからね・・・(準々決勝のローマ戦では、ホームで7点も取った)。

それでもミランはやはりベテランの集う試合巧者。きっと凄まじい戦いを見せてくれることでしょう。

さあ、アテネへの切符はどちらの手に!?

 

追記(5:45)

試合結果

ACミラン 3-0 マンチェスター・U

ミラン強ー(;゚Д゚)

2戦合計5-3、ミラン決勝進出!これで決勝は2年前と同じくACミランVSリヴァプールとなりました。何かが起こりそうな予感がするッ・・・!!

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勝負!

というわけで、今日はチャンピオンズリーグ準々決勝を観るためにこんな時間まで(3:45)起きてます。眠いぜコノヤロウ( ゚Д゚)

Wangさんも起きてるんかな・・・電話してみるか(爆)

 

今日の試合はチェルシーVSリヴァプール。プレミアリーグの強豪同士の対決となった好カードでございます。

ちなみに2シーズン前の04-05シーズンにも両者は相見えており、そのときは“微妙なゴール”でリヴァプールが2戦合計1-0とチェルシーを下しました。そしてリヴァプールはそのまま突き進み、決勝ではあの有名な「イスタンブールの奇跡※」を演じ、見事優勝を果たしたのでした。

※3点ビハインドの状態からたった6分間で同点に追いつき、延長PK戦の末勝利を飾った。反撃の狼煙を上げたのはチームのキャプテン、スティーヴン・ジェラードだった。イケメンだよ!

 

ちなみに今大会、準々決勝進出チームのうちなんと3チームがイングランドのクラブ(チェルシー、リヴァプール、マンチェスター・U。残りはイタリアのACミラン)。どちらかといえばスペインのクラブの方が好きな私としてはなんとも寂しい限りですが、どのチームもお気に入りの選手がいるのでそこはまあ好しとしましょうか(笑)

可能性としては決勝は2シーズン前と同じくACミランVSリヴァプールとなることも考えられますが、今年は個人的にマンチェスター・ユナイテッドVSチェルシーとなることを望んでます。マンUは先日紹介したクリスチアーノ・ロナウドが絶好調だし、チェルシーはクラブ初優勝がかかってますからね・・・そろそろ優勝させてあげたいものです。

 

まあ、今はとりあえずチェルシーVSリヴァプール。

賽は投げられた。両者の命運やいかに!?

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無!

その1

その2

近年、サッカーの試合でよく見られるようになった無回転シュート(ブレ球)。

いやー、マジすごい(°Д°;)

どちらの動画も、キーパーは最初は右に動いていますね。んで「うわっ!左かよ!」みたいな。うんうん、見事に惑わされています。でもあれはしょうがないよなぁ・・・(;´ー`)

このブレ球、その名どおりの「ブレる」のほかに、「最後までなかなか球威が落ちない」という特徴があります。その3をご覧ください。

その3

まるでキャノン砲ですね。ていうか距離長っ

キッカーは“悪魔の左足”ことロベルト・カルロスです。まあ、単にロベカルのキック力がハンパじゃないこともありますが、球威が落ちないのはその球質にあるそうです。

あまり詳しく説明できないので簡単に言うと、「ブレる原因」「ボール周辺の空気の流れが不規則であるため」であり、「球威が落ちない原因」「物体(ボール)の運動エネルギーは常に一定で、この場合は速度エネルギーと回転エネルギーに分かれるが、無回転だと回転エネルギーがゼロであるため、その分速度エネルギーが増す」とのこと。

 

ちなみにその1とその2のキッカーは、ポルトガル代表のクリスチアーノ・ロナウドって人。なんと私とタメです。驚きです。

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エル クラシコ

クラシコについてのご要望を頂きました(´ー`)ノ 

 

スペインの首都マドリードと、カタルーニャ州の州都バルセロナ。それぞれの名を冠する2つのクラブチームの存在は、ここ日本でも普く(あまねく)知れ渡っている。

ご存知、レアル・マドリード(以下、レアル)とFCバルセロナ(以下、バルサ)である。

スペインでは歴史的、地域的な対立を背景としたクラブチームの対戦をEl Clasico(英語でThe Classic、すなわち「伝統の一戦」)と呼ぶが、一般的にはこの偉大なる2つのクラブの対戦を指す。

もともとサッカー熱狂度の高いスペインであるが、両者が相見えるその日は格別だ。特に試合の舞台となるサンチャゴ・ベルナベウ(レアルのホーム)あるいはカンプ・ノウ(バルサのホーム)は興奮の坩堝と化し、天を劈かんばかりの喚声が響き渡る。 

ジダンも、ベッカムも、ロナウドやロナウジーニョも経験したこの試合―厖大なイデオロギーの激突とも言えるその歴史を、少し覗いてみたい。 

 

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リーガ・エスパニョーラ(日本で言うJリーグ)が創設された1928年からさらに遡ること26年、1902年5月13日に両者は初めて顔を合わせた。リーガが創設されるまでは、両者ともにそれぞれの地域リーグに所属していたため、この日のようにカップ戦でしか対決することはなかった。

この日はアルフォンソ8世の戴冠カップ準決勝。結果はバルサが3-1で勝利したが、当時はまだ現在のような激しいライバル意識はなく、「選手が純粋に汗を流す場」であった。対抗意識があるとすれば、それはインテリやブルジョア同士の権力・階級闘争の類だった。

ところが1936年、フランコ将軍率いる右派が人民戦線政府に対し反乱を起こし、後にスペイン全土を巻き込む内戦、俗に言うスペイン内戦が勃発。3年に及ぶ内戦はフランコ将軍側の勝利で幕を閉じ、結果として人民戦線側のカタルーニャや自治独立を掲げていたバスク地方を制圧することとなる。彼らの公用語であるカタルーニャ語やバスク語を公的な場で使用することを禁止し、またユニホームに刺繍されていた州旗の紋章も取り除くよう命じた。

1942-43シーズンのコパ・デル・レイ(スペイン国王杯)準決勝は、カタルーニャでは今でも語り継がれる最大のスキャンダルである。ホームでの第1戦を3-0で勝利していたバルサは、アウェーでの第2戦を1-11という不可解なスコアで落としたのだ。試合前にバルサのロッカールームに国家警察が入り、圧力をかけたと言われているが、真相は定かではない。

ただ、フランコがレアルを優遇していたわけではないようだ。事実、独裁政権が安定し始めた1950年からの10年間を見てみると、リーガの優勝チームはアトレティコ・マドリードが2回(50年、55年)、バルサが4回(51年、52年、58年、59年)、そしてレアルが4回(53年、54年、56年、57年)と、両者互角の結果を残している。

しかし、この1950年代には両者の亀裂をいっそう深める事件があった。1952年に伝説のハンガリー人ストライカー、ラディスラオ・クバラを獲得したバルサに対し、レアルは1953年にアルフレッド・ディ・ステファノを獲得。クバラは移籍先をレアルに決めていたにも拘わらず、酩酊しているうちにバルサへ連れて行かれたという逸話があるが、ディ・ステファノの争奪戦はその比ではなかった。

移籍前、ディ・ステファノはコロンビアのミジョナリオスでプレーしていたのだが、その保有権はアルゼンチンのリーベル・プレートが保持していた。そこでバルサ側がリーベル・プレートと、レアル側がミジョナリオス側と契約をし、なんと両者とも合意という事態に至ったのである。

決着は法廷に委ねられ、その結果「契約期間である4年間の間、レアルとバルサが交互に保有すること」という判決が下された。ところがバルサ側がこれを拒否し、リーベル側に払った分と同額の賠償金を受け取ることで、ディ・ステファノを手放すこととなった。そして―2週間後のリーガ開幕戦、レアルはホームでバルサを粉砕している。スコアは5-0、皮肉にもディ・ステファノは4得点を挙げたのだった。

ディ・ステファノはあまりに偉大なプレーヤーであった。登録上はセンターフォワード、すなわち点取り屋だったが、ピッチの至る所に顔を出してはプレーを組み立てた。圧倒的なスピード、卓越したボールコントロール、図抜けたキック精度、明確なプレービジョン、そして走り回るために必要な無尽蔵のスタミナ。まさしく全能の神だった。 

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ポーズを決めるディ・ステファノ

 

 

ディ・ステファノの在籍期間(1953年~1964年)は、レアルの第1次黄金期に等しい。リーガ優勝8回に加え、前人未到のチャンピオンズ・カップ5連覇。また、彼自身も2回のバロン・ドールと5回のピチチ(リーガ得点王)を受賞している。

一方のバルサは、レアルが次々とカップを掲げるのを黙って見ているしかなかった。同期間のリーガ優勝はわずかに2回、またアウェーでのクラシコでは1度も勝利できなかった。そしてその後、バルサはレアルの後塵を拝し続ける。かのヨハン・クライフが、かのドリーム・チームを作り上げるまで。

70年代を代表するプレーヤーとして名高いクライフは、1973年に選手としてバルサに入団している。ただ、初年度こそリーガ優勝に加え敵地でのクラシコで5-0の勝利を飾るなど輝きを見せたが、翌シーズンからは再びレアルが巻き返した。結局、1度はレアルに待ったをかけたものの、1978年に退団するまでに黄金期を築くことはできなかったのだ。

しかし、1988年にクライフは監督として戻ってくる。翌1989-90シーズンに早速コパ・デル・レイで優勝してみせると、その翌年には1985-86シーズンから続いていたライバルのリーガ連覇を阻止し、逆にそこからバルサのリーガ4連覇が始まった。そして1991-92シーズンには待望のチャンピオンズ・カップ初制覇。ドリーム・チームは憎きレアルを確実に押さえ込んでいた。

ドリーム・チーム解体後、クライフ辞任後はしばらく互角の様相を呈するのだが、2000年の夏、ディ・ステファノ事件以上に衝撃的な出来事が起こった。

バルサの主力、ルイス・フィーゴがレアルへの電撃移籍を発表したのである。 

「プロである以上、富と名誉を求める権利は選手にある―」とフィーゴの弁。そう、フィーゴは年俸の件でバルサが難色を示していたため、レアルのラブコールを受けたのだった。

当然、バルセロニスタ(バルサのサポーター)にとっては許しがたい裏切り行為である。そしてその裏切りから約3ヵ月後の2000年10月22日、白いユニフォームを着たフィーゴがカンプ・ノウに現れる。

―罵声、罵声、罵声!

すべての喚声が、フィーゴへの罵声となった。そして試合中も、フィーゴがコーナーキックを蹴るためにコーナーフラッグへと近づくと、スタンドからの攻撃が容赦なく襲いかかる。ウィスキーのビン、ペットボトル、ライター、コイン、レンガのかけら・・・ありとあらゆるものが彼に向けて投げ込まれたのだった。

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しかし、そんな罵詈雑言などどこ吹く風。フィーゴは右サイドの支配者として、レアルのリーガ優勝に貢献した。さらに翌2001-02シーズンにはチャンピオンズ・リーグを制覇し、その翌シーズンには再びリーガを制覇している。当然、バルセロニスタにとっては憎悪が募る一方だったであろう。 

ところが、ここ数年は再び勢力が逆転している。ご存知ロナウジーニョがバルサに入団してからだ。2004-05シーズンからのリーガ2連覇、そして去年のチャンピオンズ・リーグ制覇―好調のバルサとは対照的に、不振にあえぐレアルの様は“ガラクティコ(銀河系軍団)の崩壊”と形容されているほどだ。

特に昨シーズンのサンチャゴ・ベルナベウでのクラシコは、マドリディスタ(レアルのサポーター)にとって悪夢のような90分だったに違いない。非の打ち所のないプレーを見せた―「魅せた」が正しいか―ロナウジーニョに、スタンディング・オベーションを送らざるを得なかったのだから(スコアは0-3、ロナウジーニョは2得点を挙げた)。

 

偉大なるエル クラシコ―今後も目が離せない。

 

 

クラシコ通算成績(全233試合)

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Barcelona_2

 

 

87勝 51分 95勝

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イビチャ・オシム

「『フットボール天国』なのに、サッカーの記事があんまりないよね」

 

某先輩がイタイ一言を放ちました。すいません。仰るとおりです。

ということで、久々に書きます(調べます)。先輩の要望で、現日本代表監督イビチャ・オシムについて。

 

いきなりですが、オシムの身長ってどれぐらいかご存知でしょうか??

・・・実は191cmもあるらしいです。テレビ越しじゃ分かりにくいですよね?私もこれを知ったときビビリました。

オシムは1941年生まれ、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ出身。ただ、ボスニアは(旧)ユーゴスラビアの一部であったため(この辺よく分かりませんが)、選手時代はユーゴスラビア代表としてプレーしました。ポジションはFW。

1959年に地元のクラブのゼレツニツァールでプロキャリアをスタートさせ、その後はフランスのクラブを渡り歩き、1978年に現役を引退。そんなオシムですが、実は日本でそのプレーを披露したことがあります。

それは、1964年の東京オリンピックでのこと。ユーゴは日本と対戦し、6-1という容赦ないスコアで日本を葬り去ってくれてます。このとき、オシムは2点決めてます。

また、当時のユーゴは結構すごい成績を残しており、1960年のローマオリンピックでは優勝、1962年のワールドカップではベスト4、1960年・1968年の欧州選手権ではいずれも準優勝など、おそらくこの辺がユーゴの黄金時代と言えるんじゃないでしょうか。「政治情勢がもっと落ち着いていれば―」と言いたくなるほど、選手個々の能力は秀でていたと私は思います(今でも十分高いですが)。

 

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オシムは監督としての実績の方が有名です。そしてそれは、現役引退後すぐに始まります。古巣ゼレツニツァールのユースチーム・トップチームの監督を経て、1986年にユーゴスラビア代表監督に就任。

ただ・・・

当時のユーゴは、すでに国家そのものが崩壊寸前の状態でした。1980年に大統領のチトーが死去すると、ユーゴを形成する各共和国の“反乱”が始まり、各共和国は自国の選手のユーゴ代表入りを阻止しようと圧力をかけたり、その割には他の共和国出身の選手がユーゴ代表としてプレーすると、メディアはこぞって「なぜあいつを使うのか?それよりも自分たちの共和国の選手の方が素晴らしい」などとムチャクチャなことを書き立てて選手やオシムを批判したりと、もはや代表チームの編成どころではありませんでした。

しかし、それでもオシムは負けません。強い子です。1990年のイタリアワールドカップに見事出場させると、準々決勝まで勝ち上がります。そこで待っていたのは前回覇者のアルゼンチン。マラドーナですよマラドーナ。

そのアルゼンチン相手に、1人退場という厳しい状況ながらスコアレスドローでPK戦までもつれ込みましたが、結果は惜しくも敗退。そしてこれが、ユーゴ代表最期の輝きでした。

ワールドカップ敗退後、1992年の欧州選手権スウェーデン大会(EURO92)に向けて再び始動したユーゴでしたが・・・

ここからはWikiの詳しい解説(ここまでもかなり参考にしてますがw)。

 

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こうした状況の中で、ユーゴスラビア代表の運命を決定付ける事件が1992年4月6日に起こる。ユーゴスラビア連邦軍がサラエボを包囲したのである。この事件は2つの意味でユーゴスラビア代表の運命を大きく揺さぶった。

1.サラエボは監督のイビチャ・オシムの生まれ故郷だった。この問題はオシムがユーゴ代表監督を辞任する5月22日まで、ユーゴサッカー協会の大きな問題点の一つとなった。オシム自身も、自らの故郷を砲撃している国の監督(彼はパルチザン・ベオグラードの監督も兼務していたが、皮肉にもここは元々ユーゴスラビア人民軍のクラブだった)を務めているというジレンマと戦い続けなけなかれならなくなった。

2.ユーゴスラビア人民軍が50万以上もの民間人(その中にはオシムの妻と娘もいた)を内包したままのサラエボを包囲し、市民多数を襲撃した事によっ てユーゴスラビア、特にその中心を占めるセルビアの悪玉論が国際世論の中で主流を占めるようになったことである。このことはユーゴスラビア代表を国際試合 の舞台から引き摺り下ろすことになった。

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こんな状況でユーゴの代表監督を続けるなんて、いくらオシムが強い子でも無理ですよね。ドラえもんだって無理です。

迎えた1992年5月22日、オシムはついにユーゴ代表監督を辞任。このとき「サラエボのために唯一自分が出来る事」と辞任理由を話している様子は、テレビ(オシムジャパン特集か何か)でも何度か見かけました。

それから6日後の5月28日、ストックホルムの空港に到着した選手たちにUEFA(欧州サッカー連盟)とFIFA(国際サッカー連盟)から通達が告げられました。

 

「すべての国際試合からユーゴスラビアを締め出す。ユーゴスラビア代表はEURO92への出場資格がないので、直ちにスウェーデンから出国すること。これは強制措置である」

 

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1992-93シーズンにギリシャのパナシナイコスの監督として指揮を執ったあと、今度はオーストリアのクラブ、グラーツの監督として就任。リーグ下位の弱小クラブだったグラーツを瞬く間に優勝候補へとのし上げました。

そして2003年、オシムは日本のジェフ市原(現ジェフ千葉だっけ?)の監督に就任。ここでもクラブを瞬く間に強豪チームへと変貌させると、2006年7月21日、その手腕が認められ日本代表監督に就任。ジーコジャパンからオシムジャパンへのバトンタッチは記憶に新しいことでしょう。

 

 

・・・以上、書いてみると結構長くなったなあ( ̄Д ̄;)ゝ

オシムさん、波瀾万丈すぎます。

 

P.S. 個人的にいちばん「うわあー」て思うのは、EURO1992のこと。出場権を剥奪されたユーゴの代わりに出場したのはデンマークだったんですが(一部の選手はバカンス中だったそうです(笑))、なんとそのデンマークが優勝したんです。下馬評は芳しいものではなかったのですが、GKシュマイケルや司令塔ブライアン・ラウドルップの活躍もあり、決勝ではなんとドイツに2-0の完封勝ち。

ちなみにこのシュマイケル、90年代の世界最高のGKのひとりです。いつのものかは忘れましたが、チャンピオンズリーグの試合で、ジダンのカーブのかかった完璧なシュートを左手1本ではじき出した場面は私の脳裏に焼きついてます。

 

Pic_0017_3 シュマイケル。

 

 

 

 

 

 

追記

3月はたぶん暇なんで、サッカー記事の要望あれば調べてでも書きます(´ー`)ノ

ただ、Jリーグとか日本国内のはカンベンしてください(笑)

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悲劇の天才

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<何じゃい

 
 
 

 

 

先日、ドイツのセバスティアン・ダイスラー選手が27歳という若さで電撃引退を表明しました。原因は度重なる右膝の怪我。

 

1980年生まれのダイスラーは、2000年の欧州選手権で高い評価を得、誰もがドイツの次世代の司令塔として注目していました。

ところが2001年、試合中に右膝の靱帯を断裂。翌年4月に復帰するものの今度は大腿部を負傷し、それでも2002年のワールドカップ出場を目指して復帰しましたが、大会前の親善試合で再び右膝の靱帯を断裂。ワールドカップ出場はなりませんでした。

さらに、プライベートの問題から鬱病を患い2004年の欧州選手権にも出場できず、そうした数々の試練を乗り越えて2006年のワールドカップ出場を目指すも、同年3月にまたしても古傷の右膝靱帯を痛め不出場。悪夢は再び繰り返されることとなってしまいました。

 

ドイツには珍しい天才肌の司令塔。誰もが待ち望んでいた彼のワールドカップでのプレーを観ることは、終ぞ叶いませんでした。

怪我って恐い。

 

追記

鬱なアナタはコチラ

鬱じゃないアナタはコチラ

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偉大なる―

今日はクレア初めでした(笑)案外人少なかった・・・( ̄0 ̄) 

 

さて、私のお目当ては手帳。新しい年になったんで買い換えなきゃいかんので。

で、

手帳を求めてTSUTAYAを徘徊してたら、

 
 
 

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忘れてた( ゚Д゚)!

 

このワールドサッカーマガジンっていう雑誌は、一昨年から「グレーテスト企画」と題して、その年の最初の刊に昔のスターたちの情報を大量に掲載してくれてるんですよ。

一昨年は「史上最も偉大なイレブン」、去年は「ワールドカップ史上最も偉大なプレーヤー」、そして今年は「史上最強のチーム」

ちょいとめくってみると・・・

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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超 知 り て ぇ ヽ( ´¬`)ノ

 
 
 
 
 
 
 
 

そういうわけで即お買い上げ♪

 

そうそう、私のお気に入りのサッカージャーナリストにジャック・ティベールという人がいるんですが、彼はこの雑誌にほぼ毎回寄稿していて、当然今回も寄稿してました。

私は特に彼の哲学的な言い回しや比喩が大好きなんですが、今回の稿でもやってくれましたよ。

企画どおり「史上最強のチームを探る」と題した稿、その締めで、

 

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(中略)

20世紀を通過したこれらすべての偉大なチームの中で、最も優れているのは、私の眼にはペレのサントスと映る。この判断が主観的なのはもちろんで、私は他のすべてのチームに感嘆し、喜びを感じたことを付け加えたい。

ただ、ペレのサントスはケーキの上の蜂蜜であり、小さいが偉大な音楽を奏でてみせるオーケストラだった。知性を持ち、観衆の微笑を誘ったチーム。それは決して覚めることのない白昼夢。そう、私は形容する。

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・・・( ゚Д゚)ポカーン

 

 

ケーキの上の蜂蜜?

オーケストラ??

決して覚めることのない白昼夢???

 

この子ってばどーしてこんな形容ができるんでしょうか。

ティベっち、アンタも間違いなく偉大だぜ・・・(´ー`)ノ

 

 

P.S. 手帳を買い忘れたのは言うまでもないですね(笑)

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南米か!

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・・・( ゚Д゚)

 

 

 

 

(つд⊂)ゴシゴシ 

 

 

 

 

 

・・・(;゚Д゚) 


 
 
 
 
 
 

あれ?バルセロナ負けちゃったYO?インテルナシオナルが1-0で勝利。

とにかくこれでクラブワールドカップは2大会連続で南米が優勝。

実は前回大会も下馬評ではリヴァプールが圧倒的に有利だったけど、終わってみればサンパウロが1-0で勝利・・・ 

南米のパワー、恐るべし。

 

ちなみにトヨタカップ時代は欧州の13勝12敗。

ん?実際殆ど引き分けじゃん・・・( ゚Д゚)

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